都一中音楽文化研究所

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「日本の伝統芸能と経営者」

公益財団法人 昭和池田記念財団理事長 
SMK株式会社 最高顧問
池田彰孝さん


池田彰孝さんは、SMK株式会社(旧・昭和無線工業株式会社)社長、会長を歴任された経営者です。現在は昭和池田記念財団の理事長として、奨学金の給与 や福祉事業への助成 、伝統芸能の振興を目的とする事業への助成をされています。池田さんは日本の伝統芸能の愛好者として知られ、常磐津節を常磐津文字蔵(都一中)に習って17年になります。池田さんに、伝統芸能との関わりについてお聞きしました。


伝統芸能を知っていると、経営者はどうなるか

都一中 池田さんのことでものすごく印象に残っているのは、テレビ東京の経済番組に出ていらっしゃったときのことですね。当時はSMKの社長でいらっしゃいましたよね。

池田彰孝 そうね、たぶん社長だったと思います。

一中 それに出られたときに、インタビュアーが、「池田さんはグローバル企業の経営者で、趣味が伝統芸能ということですけれども、伝統芸能と経営とはどういうふうな関係がありますか」って聞いたんですね。そうしたら池田さんが、「伝統芸能を知っていると、海外の人と話すときに優位に立てるから」とおっしゃった。僕はそのことにすごくうれしくなったんです。そうおっしゃってくださる方、そういうふうに思う方はなかなかいらっしゃらない。伝統芸能を知らなくてもあたり前ですから。

池田 海外に行くと、日本文化を知らないと恥ずかしいですよ。だいたい向こうも、こちらが知っているだろうと思っていますから。向こうから見れば、経営者はインテリゲンチャの端くれですから。しかし、僕らは少年時代、鎖国でしたからね。昭和30年過ぎから海外旅行が徐々に自由化になって、それも1日100ドルしか使っちゃいけないとかね。だから闇ドルを買って皆さん海外旅行に行った。うちの父親が海外に行ったのが昭和32年頃ですよ。びっくりして帰ってきて、それから当時の通産省と一緒になって、電子工業を世界の流れにしようって一生懸命やっていたらしいんですけど。そのときはまだ学生だったから、それは直接タッチしていませんでした。初めて海外に行ったのは昭和39年の、ジェット機がOKになった時代。旅客事情が革命的に変わったということですね。今までアメリカに行くのには、給油地を2回ぐらい経由しないと行けなかった。ところが今度はノンストップで行けるということになった。さすがにヨーロッパは無理で、途中で給油していました。だから、時間的にものすごく早くなった。

一中 初めて行かれたのは、アメリカですか?

池田 世界一周のコストとアメリカ行きのコストが一緒だったんですよ。それなら世界一周のほうがいいやって。産業能率短大の視察団に入って行ったんですけどね。4週間ぐらいで世界一周したのかな。5週間は行ってなかったと思います。みんな世界旅行なんて初めてのおじさんおばさん。僕は一応若手だった。そのときはまだ30にならないくらいでした。

一中   それは衝撃的だったんですか。

池田 そりゃそうです。日本人はみんな彼我の差にびっくりして帰ってきたんですから。いい大人が。まだ業務よりも視察旅行ですよ。

一中 当時、日本は復興途上国ですね。

池田   就職した昭和34、35年ごろは、東海道線の特急つばめが東京から大阪まで6時間半かかった時代ですからね。東海道線沿線も瓦屋根が少なかった。トタン屋根でした。特に東京・横浜間はトタン屋根が多かった。大都市の周辺も瓦屋根よりもトタン屋根の多い時代ですよ。

一中   その頃は日本の経済がどんどんよくなっていった時期ですよね。

池田   そう、でもまだ海外で物見遊山っていう気分にはまだなってないし、規制も厳しいし、外貨割り当てがないから、闇ドルを買ってね。1ドル360円の外貨を600円とか700円で買うんですよ。

一中  海外旅行に行くのは、相当のお金持ちでないと無理な時代ですね。

池田 個人じゃ旅行は無理でしたね。団体に入らないと。それにヨーロッパはキリスト教文明でしょ。少なくともキリスト教の関係のノウハウがないと、どこに行っても全然わからないということですよね。向こうの美術館に行ったって、先方の歴史を勉強しないとわからないものがいっぱいある。それを今から勉強しても間に合わないから、自分の文化を知るしかない。

一中  ヨーロッパでは文化が継続していますよね。街並みがそうですけれども。日本って本当に明治維新と太平洋戦争で、文化を切ってしまった。

池田   特に第2次世界大戦は大敗戦でしたからね。有史以来の大敗北でしょ。日本の政府も国民も素直に認めようとしないで、終戦なんていう言葉でごまかした。あれこそ大敗戦ですよ。精神構造まで変わってきちゃった。アメリカ文明に洗脳されて。明治維新はまだ日本の精神が残ってたんですよね。「降る雪や明治は遠くなり」と詠んだ人がいたけれども、まだその頃は、江戸の名残があったんでしょう。だから明治維新は塩水でいうと塩味が5割ぐらい残った。ところが戦後になったら1割ぐらいしか残ってない。0とは言わないけど。敗戦の直前の12年間ぐらいがいちばん日本の暗い時代だったのに、それが日本だというふうに教え込まれちゃった。いまや日本は明治維新後、侵略好きの野蛮な国だと教育されていますからね。

一中   僕なんかは戦後生まれで、アメリカ人は全員幸せで全員金持ちと、そういうイメージを本当に植え付けられましたね。

池田 それは占領軍(GHQ)が意図的に植えつけたんですよ。それがアメリカのすごいとこですよ。日本が、二度とアメリカに歯向かわないようにしようという、明らかに意図を持ってやりましたからね。日本の憲法は、アメリカ人が作ったんだって言ってるのに、日本人が作ったって主張している憲法学者がほとんどだっていうのがおかしいんです。


本当の「旦那」とはどういう人か

一中   昔、池田さんのお仲間で、池田さんより年長の方にお目にかかったときに「今ね、旦那と言えるのは池田のことだけだよ」とおっしゃったんです。今はお年から言えば、池田さんは大旦那ですよね。

池田 残念ながらそれは過大評価ですね。もっと教養があって、日本文化に知的興味を示さないといけない。手は広げましたけれど、仕事も忙しく、他にやることもあって気も散るし、集中してできませんでした。

一中 池田さんのなさり方をいろいろ見ていて、旦那っていうのはこういうものなんだなと思うんですね。池田さんは、どこでそれを身につけられたんですか。

池田   友達がよかったからだと思います。東京青年会議所に所属していたときの。青年会議所というのは40歳までの青年経済人の集まりなんですけど、文化に関心の薄い会員が多かったわけです。で、懐石「辻留」の辻義一さんが幹事で、日本文化の理解を深める「文化愛好会」というのを作ることになって、50名くらいで立ち上げた。そのとき東京だけで会員が1000人ぐらいいましたからね。全国では3万人から5万人ぐらいいた。その頃が最盛期だったんですよ。創設者が皆生きていたから、元気よかった。日本も高度成長期でした。評論家の小林秀雄、裏千家大宗匠の千玄室(当時は家元千宗室)、芥川賞作家の森敦、評論家の河上徹太郎、英文学者で文芸評論家・作家の吉田健一、日本文学者・日本学者のドナルド・キーン(当時はコロンビア大学教授)といった方々にきてもらって、話を聞いたり、討論したりしました。4年ぐらいやったかな。

一中  今はその会は。

池田 残念ながら継続されていません。お稽古事をやっていた人は、青年会議所の後輩ではあんまりいないけれど、先輩には銀座や日本橋の旦那衆が多くて、その方々は常磐津か清元をやっていました。長唄は少なかったように思います。

一中 盛んだったですよね。日本橋の大店の大旦那は、もともと伝統的に河東節で歌舞伎の「助六」という演目に出ますからね。

池田 「助六」を見ると日本橋の魚河岸の方々がいちばんのスポンサーだったのがわかります。魚河岸は昼で仕事が終わって、暇になっちゃうんですよ。築地市場で商売していた友達に聞いても、「僕はもう9時に仕事が終わっちゃう。12時頃はひまですからお稽古ですよ」って。

一中 そうですか。今はお稽古をやる人が少なくなっていますけれども。

池田 なんで止まっちゃったのかと思うんですけどね。

一中 習うってこと自体が、その文化を応援するいわゆるパトロネージュなんです。だから、おしょさん(お師匠さん)をパトロネージュするっていうことですね。

池田 それもありますね。おさらい会があるからそれが楽しみだっていう人もいましたね。苦痛だったって人もいたけど(笑)。

一中 お稽古のとき、池田さんにいろいろ細かく一生懸命お伝えしようとすると、「そんなに上手にしてくれなくたっていいから。かわいくないでしょう」って拒否されちゃう。確かに、楽しみとしてなさっているから、ご愛嬌があっていいんです。

池田  一中節をやっている若い人たちが少し広げてくれるといいんですがね。

一中  一生懸命広げてくださっています。今の若い経営者の人たちとか、ITの人たちにも、日本の文化に興味のある人がいらっしゃるんですよね。

池田   僕の言う若いっていうのは、50歳から60歳前後。そこで始めれば、素人の稽古事として十分楽しめると思いますね。

一中 60はまだ若いんです。業界では僕もまだ若手ですから。「若くていいね」とか言われています(笑)。


日本の芸能のこれから

一中 日本の文化を今の時代にどういうふうに紹介するかが課題ですね。

池田 一つはマスコミでしょうね。結局やってくれているのはNHKしかいないでしょう。でもNHKもいい時間にはやらないですよね。歌舞伎も演目の全中継はやらなくなったのですか。昔は2時間ぐらいちゃんとやりましたよ。もうちょっと日本の芸能の番組を増やしていいと思いますね。西洋音楽はあれだけ時間を設けてるんだから、西洋音楽の半分ぐらいは。本当は逆だと思うけど。

一中   池田さんは常磐津を習われてどのくらいですか。

池田  もう17、18年ですね。

一中  池田さんが常磐津を始められたときは、まだ新橋に常磐津が得意な芸者衆がいましたよね。

池田 いました。新橋に常磐会という応援団があったんです。応援団があったのは、そこだけですね。

一中 芸者衆の芸が上手でしたよね。

池田 新橋は常磐津をやっている芸者衆が多かったですね。芸者衆が多ければ、腕の立つ人も多かったということですよ。

一中 いいトライアングルがあって、新橋で遊ぶ方の声がよかったり、常磐津がお好きだったりすると、常磐津の芸者衆がこの方を自分の新橋のおしょさん(お師匠さん)に紹介するわけです。常磐津をやんなさいと。語れるようになると、お座敷でやりたくなる。芸者さんは生きてるカラオケなんです。昼間、おしょさんに習ったものを夜お座敷で語る楽しみがあった。

池田 昔は「段もの(一中節、常磐津など、何々の段と呼ばれる浄瑠璃)」を出す(語る)お客さんがいましたね。今はせいぜい小唄です。小唄で芸者衆に踊らせるというのはごく平常の話だったけれど、今は「前に言ってくんなきゃ困りますよ」って言われちゃう。新橋のエリザベス・テーラーって言われた、さん子姐さんが「池田さん、私はなんでもやるからね」って、それを当たり前だと思っていた。先斗町にもなんでもできる人がいましたよ。ごちゃごちゃ言ってると、「池田さん、ちょっと待っててよ」と言って、本をばっと持ってくるんです。「何でもやるから言ってちょうだい」ってね。本広げて、それ見ながらだけど。長唄小唄1人で全部やっちゃったんですよ。

一中 半分知らなくても弾けちゃうんですよ、なんとなく。

池田 そういうお客がいなくなっちゃったから、芸者衆もお稽古のしがいがない。

一中 見るほうも芸者衆の踊りを見てもわからない。

池田 40年代、オイルショックまではそういう文化が完全にありましたね。オイルショックが一つの転機でした。昔は中流以上の家庭だったら、琴とか三味線やるっていうのはわりと多かったですよ。その習慣がいつの間にかピアノとバイオリンになっちゃった。

一中 こちら側のイメージ戦略が失敗したかもしれません。それに、お座敷に行って楽しくなるには相当年季が入らないと。1回や2回ではね。

池田 教える人がいないからね。熱意をもってやる人が少なくなった。僕はお能なんですよ、お稽古事の出だしはね。お能、小唄、河東節、常磐津ですから、順番からいくと。

一中  お能は相当若いときからですか。

池田 お能を本格的に始めたのは、40代の後半かな。懐石「辻留」の辻義一さんがぜひって。僕ら仲間だけで集まって、観栄会をつくってやっていたときがいちばん楽しかったなあ。師匠の観世榮夫さんが亡くなって、中断したんです。

一中   お稽古するだけじゃなくて一緒に遊ぶっていうのが楽しいんですね。

池田   今コロナでそれができないのが気の毒ですね。日本の文化に貢献しているのは歌舞伎かな。あれだけ若い人が来るっていうことは。それを契機に習い事をしてみようと若い人、特に女性ですけどね、増えるといいと思うんですけどね。

一中   歌舞伎俳優さんも、若い方がすごく増えてきたんです。素晴らしい方たちで。それに刺激されて、そのお父さんたちがさらによくなって。息子さんがしっかりしているから負けていられないっていうことで。

池田   人気があるうちに、建て直しができるといいですね。

一中 そうですね。そこに連携してね。

池田 じかに触れるのがいちばんいいですよ。地方では歌舞伎があったり、人形芝居やったりしている伝統があるから、その伝統を生かすことができるといいですね。

一中   実際にご自分でお稽古して、浄瑠璃を語られて歌舞伎を見るのと、何もしてないので見るのでは全然違いますか。

池田 それは違いますよ。解説を一生懸命聞いても忘れちゃうしね、やってないと。

一中 やってないから難しいんで、やってると自然に何だかわかっちゃうんですよね。セリフとか言ってるだけでも面白い。常磐津っていうのは、歌舞伎を一人でできちゃう。女形も立役も音楽も。だから歌舞伎を知らないと、常磐津やっても面白くないかもしれないですね。情景が浮かばないですよ。

池田   多少趣味のある人が見た方が面白いことは間違いないですね。昔の時代物の映画では、だいたい、あだっぽい常磐津の師匠が出てきて、それに岡惚れしている町の人がお稽古に来るという設定だったですね。

一中 お稽古するのは女のおしょさん(お師匠さん)しかいないんです。男のおしょさんは芝居がいっぱいあったからお稽古する暇がなくて、女のおしょさんは、もう稽古だけずっと毎日なんですよ。1日と15日だけが休みであと毎日お稽古。毎日通うものなんですね。時間なんか約束しないで、本当にちょっと短い部分を3回ぐらいやる。月ざらい(師匠が毎月芸を演じさせる勉強会)で毎月やったところまでさらう。男のおしょさんも、舞台に出てるだけだから、ちゃんとしたものは女のおしょさんの上手な人のところに習いにいくんですね。

池田 戦前までは寄席は各所にありましたからね。子供のころ、大井町とか荏原でも寄席がありました。60人くらい入るような。

一中 山田五十鈴と長谷川一夫がやった『鶴八鶴次郎』という新派の映画だと、寄席で新内を語ってるし、娘義太夫なんかもやっている。寄席で人気を得るというのが大変なことなんですよね。


お稽古の楽しみいろいろ

池田 今また常磐津の振り出しに戻ろうかって、一から始めたところです。最初にお稽古した『夕月船頭』という、粋な淀川の船頭の曲。

一中 それを初演した役者さんがずっと関西で芝居をしていて、難波土産としてわざと淀川の景色にしたというものですけど、踊ってる雰囲気はまったくの江戸風。粋な雰囲気の船頭さん。池田さんが夏の会でやった『乗合船』は大工さんと白酒売が登場する曲でした。

池田   『乗合船』は踊りの会では人気番組ですよね。でも、踊りの会がないんですからね、この2年間。ないっていうのは困るなあ。名人上手がなくなっちゃう。清元の美治郎さんだって、コロナで亡くなったんでしょう。

一中  本当にショックですよ。

池田 次の人が出てくれればいいんですけどね。

一中  清元さんはそれでも菊輔さん、志寿造さんとかいい方が出てきています。常磐津の方が寂しい。今いろんな昔のいい録音がCDで出てますからね。千東勢太夫さんとか菊三郎さんとかの。踊りで出る曲がメインですけれども。そういうものがありますから、それを徹底的に聞き込んで、丁寧になぞっていくうちに自分のものになるんじゃないでしょうか。僕は踊り地の勉強は、そのCDをものすごい大きな音でかけながら一緒にやって、勉強させていただきました。若くてもやらせていただけたんで、見たことも聞いたこともない曲をいきなり舞台で弾かなきゃならないこともありました。

池田   文句で想像するしかないんですね。こういう振りがついているのではないかと。

一中 だから下ざらいに行ったときはドキドキで。それでもやるよりしょうがない。でもCDがあったから、そのとおりにやればなんとかなったんです。


都一中音楽文化研究所設立のきっかけ

一中  都一中音楽文化研究所ができたきっかけは、池田さんの一言なんですよ。団体をつくった方がいいと。

池田   いろんな補助金をもらうときも、体裁を整えて申請しないといけませんからね。昭和池田記念財団の目的は福祉と育英だったのが、定款を変えて古典芸能の振興も足したんです。それはちゃんと認可してもらいました。

一中  財団の周年記念のときはいつも演奏させていただいています。学生論文に対しても賞金を出しているんですよね。そのお一人が茂木健一郎さんですか。

池田 脳科学者のね。第10回(1990年度)の昭和池田賞受賞者です。

一中 40周年の祝賀会の講演で、茂木さんがポスト・トゥルース(客観的な事実より感情に訴えるもののほうが、影響力が強い状況)について話されて、その後池田さんとお話ししたときに、「あれは、嘘が浮世か浮世が実かって、昔から小唄の『初雪に』にある話だよ」って。そういうのがすぐに出てくるっていうのがね。池田さんは物事の真実、本質を、小唄とか常磐津から自然に身に付けてらっしゃる。

池田 日本人の教養というか知的レベルはすごいんですよ。紫式部の時代からあったんだろうと思いますね。

一中 またそれをしゃれた言葉で、「そんなの昔からあるよね」というふうに切り返せる。それが本当の教養ですね。おかげさまで研究所としての活動として、毎年の演奏会を昭和池田記念財団に助成していただいていました。

池田 毎年必ずやっていたんですよね。古曲会の中の団体で、そこまでやるところはないでしょう。今一番人気なのは河東節ですか。

一中 やっぱり河東節が多いんで、河東節十寸会(かとうぶしますみかい)が古曲会にだいぶ援助してくださってるんですよね。古曲会は会員が少ないですけれど、文化庁からの補助金があるんですよ。今度それを使わせていただいて、記録保存事業をやらせていただきます。

池田 古曲会に入っているのは宮薗、一中、河東節ですか。荻江節もいいなと思ってるんですよ。

一中 NHKではもともと邦楽を娯楽番組としてやっていたんです。常磐津、清元、長唄、義太夫ですね。浪花節がそこに入っていたかどうかはわからないですね。常磐津、清元、長唄は、みんなが喜んで聞いていたんです。その中でときどき一中節だの河東節をやると、「これはつまらない、こんなものやるな」ってクレームが来た。それでNHKが、「これは娯楽番組じゃなくて教養番組ですよ」ってことで古曲っていう括りをつけたんです。「そういうのは教養で娯楽ではありません」と。まだ常磐津や清元は娯楽で、みんながいいねっていうふうに聞くものだったからですね。

池田 元々はみんな庶民の歌だったんですけどね。アメリカでもジャズがクラシックになった。しかし、いつからクラシックなんですかね、ジャズは。

一中 アメリカでは、今の若い歌手たちが50年も60年前の歌手の歌をものすごく上手に歌ってトリビュートするんですよ。テイラー・スウィフトとかレディー・ガガとかが、バーバラ・ストライサンドやビリー・ジョエルの歌をね。ケネディセンター名誉賞っていうのでやっていました。今年は名誉賞を五嶋みどりさんが取られました。あの企画がすごいですね。日本では今の若い歌手が、昔の美空ひばりとか三波春夫とかの歌をすごく上手に今風にかっこよく歌って、それで彼らを称賛するというのはあまりないですね。加山雄三だけはなぜかあるんです。サザン・オールスターズとかもっと若い人たちが、トリビュート・オブ・若大将みたいなのをやっていて、加山雄三の歌を歌う。そういう流れが日本って本当に少ない。僕が中学生のときに、超あこがれだったのは加山雄三でしたね。

池田 昭和40年頃からいっぱいできた流行歌が、今クラシックになっていますね。

一中 戦後すぐの流行歌っていうのは、ものすごく明るくて元気になります。YouTubeで笠置シズ子さんの『東京ブギウギ』を改めて見ると、すごくいい歌ですね。「ブギのリズムは世界のリズム」とか、世界が一つだっていう歌なんです。あと藤山一郎さんの『青い山脈』。あれも本当に明るい。

池田 これから日本を復興しようっていう頃だったですからね。

一中 江戸時代ってものすごく豊かな時代だったから、心中ものとか、歌舞伎の『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』で首切ったりするのを平気で見られるんですよね。「嫌だね。武士じゃなくてよかったね」と。忠臣蔵とかの悲劇もそうです。逆に現代の歌は、明るく生きようみたいなメッセージ性がちょっと強すぎると思いますね。


池田彰孝(いけだてるたか)
1937(昭和12)年東京生まれ。1959年早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。岩井産業株式会社(現・双日)に入社。1960年岩井産業を退社、昭和無線(現・SMK)入社。1963年取締役に就任。1968年東京青年会議所に入会。1972年東京青年会議所に文化愛好会を創設。1973年昭和無線代表取締役社長に就任。1976年第27代東京青年会議所理事長に就任。1980年小唄の名取になり「飯島きみ彰」を拝受。観世流・観世栄夫に仕舞・謡を師事。1990年茶道裏千家で茶名「宗孝」を拝受。1994年昭和池田記念財団理事長に就任。2007年〜2013年東京商工会議所副会頭に就任。2008年常磐津節「常磐津彰字太夫」拝名。2014年藍綬褒章受章。2018年SMK最高顧問就任、現在に至る。

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