都一中音楽文化研究所

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「わからなくても、毎日ブルックナーを聞いていた」

北村法律事務所 弁護士
北村大さん


弁護士の北村大さんは、都一中と子どものときに出会っています。その後長年会うことがなかった二人が再会し、北村さんは一中節を習うようになりました。
北村さんに子どものころの都一中の印象をはじめ、さまざまな思い出をうかがいました。


出会いは小学校6年生のとき、40年後に再会

北村 今日は、僕らの幼年時代についてですか。
一中 いやいや、一中節をお稽古してらっしゃることと、研究所の活動に対することについてお聞きしたいんです。出会いの話ももちろん伺いたいんですよ。北村先生はどんな人なのか、すごい人だってことはわかるんだけど、それをちゃんと伺いたい。そういう人が一中節にかかわってることをまず。
北村 それじゃあ最初の出会いから。一中先生と最初に出会ったのは、昭和39年、オリンピックの年です。あれ3月ぐらいだったと思うんです。僕ら共に蛍友会っていう進学塾に通ってました。渋谷からバスに乗ると、今の東急本店は大向小学校って小学校だった。あそこで左に曲がっていくと、左が鍋島公園で右に当時女優の山本富士子の家があったんです。
よ。
一中 それは知らなかったですね。
北村 それから代々木上原の方に三叉路を左に行くんです。するとグッゲンハイム美術館みたいな螺旋校舎の東海大学があって、そこに僕ら日曜日に行っていた。
一中 日曜テスト教室。
北村 でその頃に行った中で、著名人は都一中先生、それから前の丸紅の会長とか、(千葉県鴨川市の)亀田病院の院長。
一中 そうだったんですか。僕は北村大先生しか知らない。
北村 それがみんな仲間ですね。ある日、テストが終わってみんな集まってたのかな。で、僕は、一中先生の前の列に座ってて、一中先生はピーコートみたいな服を着ていて。
一中 よく覚えてますね。
北村 その隣にいた男が悪い奴でね、いきなり重いかばんで一中先生の頭を殴りつけた。ばんって。こっちは、さあ喧嘩が始まると思って喜んで見てたら、一中さんニコニコしちゃって全然怒んない。「はっはっはっはっ、面倒見きれねえや、こいつは」っておっしゃって。こんな性格のいい人間は世界探してもいないだろうとびっくりした。それでまた名前が藤堂誠一郎とかっこいいじゃない。こっちは北村大ってありふれてんだけど、藤堂誠一郎ってなんかお侍みたい。で、藤堂誠一郎という名前がその時頭に刻まれた。その後交流なかったんだけど、一中先生は、青山学院の高等部から藝大に行かれて中退したっていう日本でいちばんかっこいい学歴でしょ。こっちは男子校でしょう。でもずっと覚えてた。
1990年代初めに都一中になられたって噂は、ある方から聞きまして。その方に「北村大っていうんですけど、おめでとうございますとお伝えください」とメッセージを届けた。でも返事がない。「君のような小者は、もう相手しないんだ」ってことかと思った。しばらく経って、もう15年前ですかね、東京西ロータリークラブに入られるっていう。会場に見えたので「君、藤堂誠一郎君でしょ。北村大です。覚えてる?」って聞いたんです。
一中 覚えてる。同じヘアスタイルだから。黒い髪だったけど、そういう感じだった。
北村 そうでもなかったと思うけどね。
一中 かわいらしい感じ。
北村 お互い紅顔の美少年です。そしたら全然変わってない。「一中節をやってるんですけどやってみますか」、って言われた。でも僕は歌舞伎嫌い、音楽嫌い、邦楽にまったく縁がなかったんで、番町のお宅にお邪魔してお稽古をつけていただいて。自分で才能ねえなと思ったんですけど、そのうちロータリークラブで、集団で教わるようになりまして、それから個人的にもレッスンをちょうだいするようになりまして、ひょっとしたら、才能はないけど練習すればものになるかなと思ったんですよ。それで一生懸命練習したら、「君もそろそろお名前を取ったらどうですか」っていうことで、ありがたくも雷の中と書いて、ピカチュウと言いますけど、ピカ中をちょうだいしまして、それでデビューしようと
思ったらコロナ始まっちゃって。でも最近つくづく思うんですけれども、都会(みやこかい)に行くんですけどね、だんだん下手になってんなとわかった。才能まったくないからいくら練習してもダメだって。稽古しても限界、稽古しないとますます。
一中 稽古すればするほど難しさがわかりますねって言ったら、しなければしないほどもっと難しいとわかるってすぐ返事があって。
北村 どっちみち才能ないなっていうことだけはよくわかります。音楽は3しかとったことない。普通は小学校の音楽ってさ、真面目にやれば4か5はくれるじゃない。なぜか3しかもらえない。
一中 あと全部5でしょ。
北村 そうでもない。先生に嫌われたり。
一中 僕の小学校のとき、北村大って名前を非常に印象付けているのは、その塾だけじゃなくて全国のいろんなテストがあって、大勢の人の中で必ずトップに北村大って入っていたことですね。
北村 必ずではないですよ。児玉龍彦っていう東大医学部の先生いるじゃない。あれが僕よりできますよ。
一中 そうですか。でもね、だいたい1番か2番にいるわけ。それで北村大っていう名前は覚えている。なんなんだろうこの人って。でもかわいらしい方だったし、あと頭の大きい人だなと思って。
北村 家内に言われました。今日は日本語ちゃんと喋れないから無理だって。「だいたいあなたの話はわかんない」って。一中さんとは知り合いになってすぐ別れちゃったんだけど、ずっと覚えてた。30年40年経って久々に再会しても、ばっちり覚えてた。やっぱり一中節の神様かなんかがいるんですかね。でも相変わらず僕は歌舞伎が好きになれないんですよ、長すぎるよね。
一中 それで「早く『旅ゆけば』とか、あれ教えろ」って言うんですけど、あれは浪花節だって。
北村 あれはね、子どものころ祖母が田無に住んでたんですよ。泊まりに行くじゃない、そうすると、キセルでタバコ吸いながらNHKの2番ですか、広沢虎造のべべんべんべんってやつを聞いているんです。それで浪花節を知ったんです。それ以外のものは教わらないじゃないですか。
一中 聞く機会がね、ないんですよ。
北村 まったくないんです。その多感な小学校の時期にビートルズがきちゃった。これでもう僕らは洋楽にはまっちゃって。歌詞をカタカナで聞き取とって学校で歌ったんです。それで洋楽の方に行きましてね。
一中 洋楽、クラシック音楽、詳しいですよね。
北村 いやいや。クラシック音楽は、うちにおどろおどろしいベートーベンの第5のレコードのジャケットがあって、ベートーヴェンのデスマスクなんです。怖い。こりゃ自分の生きる世界じゃない。あと、しち面倒臭いモーツァルトとか、そういうイメージがあったので入っていけなかったんです。だから結局ポップスですね。ポップスはちょうど日本で流行って、坂本九とかいっぱいいたじゃないですか。
一中 じゃ、九ちゃんなんですね。
北村 弘田三枝子とかね。FENであっちのポップスを聞く機会もあった。ポール&ポーラなんて知らないでしょう。『恋は素早く』とかね。これいいじゃんっていうのが流れてくるわけね。

北村弁護士の外務省時代

一中 英語はいつからできたんですか。
北村 英語は、留学してからですね、それまで、コカ・コーラ飲んでるやつと英語喋ってるやつは日本の敵、米帝国主義の手先だと思っていました。英語は点数悪かったです。いろいろ経緯があって外務省に入りまして。
一中 でも、外務省に入れるってことは英語できなきゃね。
北村 試験あるんですけどね。大きい声じゃ言えないですけど、引っ張ってもらえた。それでアメリカに行きます。そのとき、まずニューヨークに行って日本航空から降ろされるじゃない、ワシントン行きに乗り換えるんですよ。ターミナル変わってアメリカの航空会社、当時はブラニフのチケットカウンター。ペラペラペラペラ、何にもわかんない。本当にわかんなかった。
一中 そうですか。
北村 大学卒業して役所に入って、いつの間にか変なプライドができてる。わかんないとき、汗が出る。顔が赤くなって。「わかんねえ、おれダメだ」と思うわけ。それがすごいショックでした。
一中 ニューヨークのカウンターで。
北村 カウンターでカルチャーショックでした。こんなとこで生きていけるだろうか。
一中 アメリカはボストンのハーバード大学に留学したんですね。そこで何を勉強したんですか。
北村 最初はロー・スクールっていう法律の勉強。それから、ケネディ・スクールって行政の勉強、それも行って修士号を二つもらいました。
一中 ぼくもね、実はハーバードには10年通ったんです。朝散歩してただけだけど、同窓生。こちらは修士だけど。
北村 ハーバードも広うござんして、日本研究の部門があるんです。亡くなったヴォーゲルさんとか、日本研究部隊がいる。ハーバード行った人ってそこと仲いいんだけど、私は、日本研究専門のアメリカ人と付き合うのってどうかなって思って、近寄らなかった。そこに行けば日本の新聞もあるんだけど、読むまいと思って。
一中 留学してるときはケンブリッジにいたんですか?
北村 ケンブリッジの寮です。英語何言ってるかわからないから、誰も相手してくれなかった。
一中 いわゆるキューティ・ブロンドがいた。映画のような。
北村 そんなのいなかった。あのままだったら英語うまくなんなかった。友達がたまたまできたらよかったけど。
一中 日本人の友達ですか。
北村 アメリカ人です。悪いやつでね、スラングを山ほど教えるわけ。ここで言えないような。
一中 スラングから覚えちゃうとねえ。
北村 そういうスラング使って話していたらある日、「お前いやらしいねえ。俺のせいかなあ」
って。こっちは日本語教えてあげてね、それがアメリカの体験ですね。もし日本研究に出入りしてたら、なんてアメリカ人は日本に理解があって優しいんだろうと思うかもしんないけど、僕は行かなかったから、アメリカ人は日本に興味ねえってわかった。100人会ったうちの5人ぐらいは興味あるけど、だからってアメリカ人は日本好きって考えちゃいけないと思いましたね。外務省にはアメリカ人は友達だと思ってる人が結構いましたけど。アメリカ人は難しい人たちじゃないから、溶け込むことはできるかもしれないけど、それは礼儀でやってる部分もあるから、彼らの世界に本当に入り込むっていうのは、並大抵なことじゃないです。日本人の方でハーバードの4年のカレッジをちゃんと卒業して、これが一番難しいんだけど、その後ビジネススクールに行って、英語もちろんペラペラで頭もいいし、さぞかしアメリカで大活躍するだろうと思ったら、結局日本帰ってきてる。もう一つ思い出があって。二つ目の学位もらったときも必死に勉強したんですね。中間試験、ミッドターム・イグザム、そこまではね、勝てるんですよ。真面目にやったら。みんな全然勉強しないから。ミッドターム・イグザムが終わって、ペーパー一つとファイナル・イグザムがパターンなんですけど、ファイナル・イグザムの1週間前ぐらいからみんな寝ないで狂ったように勉強するわけ。やっぱり馬力がすごいのね。あっという間に全部覚えて。そのころもうこっちは疲れてきて、成長しなくなるでしょう。抜かれて終わる。パワーの差です。まあ根本的に違う社会の中で日本人が生きていくって相当厳しいですね。
一中 本当に違うでしょうね。
北村 話合わないですよ。そもそも何言っているかわからない。最近はNetflix見てるとアメリカ人の関心がどこにあるかってなんとなくわかると思うんですが、当時それもないからね。ニュースを見てると、全然関心が違うなってわかりますね。そういうカルチャーギャップ経験が終わってワシントンに行きまして、大使の秘書をやりまして、私自身が秘書必要なくらいなのにね。それでお客様と大使がお食事をするとき、プロトコルって席の配置が大事なんですが、その係。そのための本もあるんですよ。
一中 その立場とかいろんなことを勘案して。
北村 アメリカ人、特に軍人が位を気にします。自分の席次をじっと見て、あそこに誰がいるとチェックします、特に偉い人は。アメリカ人はみんな平等ってことはないね。で話がそれますが、経産大臣の御一行が来たときですけど、昔から知ってる役人が随行してたんです。私は大使主催の食事の会場で席のアレンジをしてましたら、そこを見て「きみ何やってんだよ」って。そいつ東京に帰って、「北村はワシントンで椅子の配置換え係をやっていた」って噂しやがって。そんな調子ですから中身はあんまりないんですけど、席次だけは自信あります。
一中 重要ですよ。
北村 席次しっかり覚えて帰ってきてから、北米2課になったんですよ。皇后陛下がのちに配属されたところ。そこでこき使われましたね。その後今度は小和田局長が上司。
一中 雅子さまのお父さん。
北村 なぜかご縁があった。それでそろそろ在外(公館)に出るんじゃないか、課長になるんじゃないかと思った、38歳ぐらいのとき、ちょっともういいやと思って。先が見えてきたんですよ。あのままいったら。
一中 大使ですか。
北村 いやいや。まず問題だった鈴木宗男っていう人がいましたね。安倍さんも合いませんね、私には。そのまま務まりはしなかった。
一中 北村先生は非常に純粋だし、実務能力だけじゃなくて、歌舞伎とかお嫌いだっていうけど、中国の古典文学とかフランスの言葉とか、そういうのもすごく読んでらっしゃる。試験で点取るだけの人じゃない。大学は試験で点取るのがうまい人が入ると思うんですよ。だけどそれ以外の無駄なことをいっぱいなさってる。それをやりながらちゃんとすごい点が取れちゃうっていうところがね、尊敬するところです。
北村 無駄といえば(司法試験の)民事訴訟法って教科書400ページぐらいあるんですね。あと1週間で試験。よし、もう理解するのは無理だ、覚えるしかない。教科書を開いて白い下敷で隠して、民事訴訟法の原則「その1何とかかんとか」、と丸暗記しました。若かったからね。その気になればできますよ。
一中 だけどね、大体それは無理だと思っちゃう。せいぜい数10ページいったところで、もう無理だなと。
北村 馬鹿なんでしょうね、おれにはできると思いこむんだ。
一中 いや、それが大事ですよ。
北村 そうですか。
一中 絶対できると思ってしまう、根拠のない自信は非常に重要。
北村 音楽に関しては根拠あって自信ないんです。笛も駄目だし、歌も駄目だし、成績は3しかついてないし。音感ないし。
一中 そんなことないですよ。
北村 何の話だっけ、そうそう、外務省を辞めて弁護士になって、それでどうしようかなと思った。司法試験には大学在学中に受かっていたんです。司法修習やって、大手の事務所に誘われていたんだけど、ある知人に言われた。「お前、そんな組織に加わるんなら、外務省にいた方がよかったんじゃない?」って。いいこと言うなあと思った。
一中 外務省辞めたときにも、弁護士事務所に入らないで。
北村 いきなり独立した。当時メールもSNSもないから電話機1つ。電話鳴らないですよ。宣伝もしてないし。じっと待ってても、何も起きないです。でもね、「お前、弁護士やってんだって?」と、最初に日本のお役所の関係の人とかね、「ちょっと君頼む」みたいな方がポツリポツリと。あと役所にいたとき、アメリカの法律事務所と仲良かったんです。そこから「これやってくれないか」と。なんとなくそれで繋がりが増えました。今でもその法律事務所と仲いいです。今どうやってやってるかって、毎朝メールで「これをやってください」と来るから、考えて返事送るわけです。それで請求書をPDFにしてピッと送る。ある日ピッと入金がある。向こうとは会ったことないし、話したこともない。
一中 だけど、アメリカの裁判の方とこっちの全然違うんですよね。
北村 違いますね。根本的に似てるとこもあるんですけどね。仕事として、アメリカの訴訟に加わったことが何回かあるんですけど、準備がすごいんですよ。私は日本法のエキスパートってことで行ったんだけど、アメリカの大きい法律事務所でパートナー3人ぐらい、アソシエイトは何人かでワーッと準備して、それで始める前に、モック・トライアル、模擬裁判ですね、尋問もやって。
一中 それは英語で。
北村 失礼な(笑)。こう見えてもね、通訳してましたし。
一中 そりゃそうですよね。ときどき、誰か英語の人が来たりすると、僕はわかんないけど、北村先生の英語を音として聞いて、これすげえなって。
北村 家内に言わせると、「南米の香りがする英語だ」って。外務省の通訳の話って、つい言っちゃうんだけど、笑い話があって、聞きたい?
一中 聞きたい。
北村 某国の大統領が日本に来たんです。総理大臣との会談で外務省の英語通訳がついた。大統領がお話を始めた。そばにいる外務省の人が、おかしいなあ、と。英語みたいに聞こえるわけですよ。でも何言ってるんだろう、わかんないなあと思ったら、さすが日本の外務省の通訳。朗々と日本語で訳し始めたわけですね。「本日は総理にお会いできて、まことに光栄でございます。私ども●●は、どこそこにありまして、人口は…」とかやり始めた。さすがだなあ。そしたら、向こうのお付きがざわざわし始めた。「ちょ、ちょっと待って。まずこっちで英語にしますから、通訳はそれからにしてくれ」。英語じゃなかった。現地の言葉だったんですよ。それを日本語に直したという話。もちろん意味わかってない
ですよ。勧進帳。有名な話です。勧進帳と言えば私もヴェネチア・サミットで、突然随行の代議士数名のお世話をしろと言われました。でもこっちもヴェネチアなんか知らないじゃん。「案内して」「はいわかりました」って。「この建物はなんだね」って言われたって知らないですよ。「これはサン・ペトロ寺院のとなりにありますけど、寺院とは関係ございません。元々は市庁舎です。1500年頃のメディチ家が盛んだったころ…」、メディチ家関係ない。「ほおー」「あちらご覧いただきますとルネッサンス様式で…」、口からでまかせ。
一中 それは、本当に当意即妙(笑)。
北村 もう一つあって、首相と一緒に外遊に行ったとき、総理と向こうの人が船に乗ってクルーズ。私だけ一緒に乗りました。降りてきたら、新聞記者の方が集まってきて「総理が何か言っていただろう、お前言え」って。「何もなかったです」「そんなはずはない、なんか言っただろう」「そういえば、いやよくはるばるここまで来たもんだと、おっしゃってました」と適当に言ったわけ。記事になりました。
一中 そういうもんなんですか。
北村 まあ私なんてそんなもんですってことで。

さっぱりわからないけれど、毎日ブルックナーを聞いた

一中 北村先生が弁護士として法廷に出て、どんなふうに裁判してるのか見てみたいな、どんなふうにやり合うんだろうと思ったら、「いや法律なんか全然関係ないんだよ。その裁判官がどのような人間性か、どんな偏見を持ってるか、どんな言葉に反応して、どんな判断をするか、どういうふうにこちらに有利な判決を下すかを、全身で感じ取る」って。日本は基本的に裁判官が決めるわけですからね。
北村 そこまで能力ないですけどね。人間ですから、基本的にバイアスかかってます。どういうバイアスかかってるか。
一中 それを感じ取っているって。それを聞いてからぼくは「超法規的弁護士」って呼んでます。法律とか制度とかっていうのは、ぼくみたいなそういうとこから外れた日常生活をしていると、不思議なこと言うなと思うこともありますね。もっと人間的なことに基づいた、人間がわかって、人としての判断の仕方があるはずですよね。古今東西の文学に通じてたり芸術に通じてたりするから、法律だけに通じてるのとは違うバックボーンというか下地、そこが北村先生を尊敬するところです。だから一中節もなさっている。
北村 法律に通じてないのは認めます。森鴎外とか読みだしたのは最近なんですよ。保守反動化してるから、森鴎外が書いていることよくわかりますね。『阿部一族』とか、しんみりきちゃう。若いときは何このつまらないの、とか思うでしょう。
一中 でも文語体は一中節を稽古すると読みやすくなります。
北村 文語体、係り結びですよね。「こそ、けれ」ね。
一中 下地がね、そういう無駄の部分がね、いわゆるエリートがエリートの教養として知識として身につけたふりをしてるのと、本当に血となり肉となる、人間性を形成する元になってる、養分になってる読み方とは、同じ森鷗外を読んだ方でも違う。例えば、プルーストの『失われた時を求めて』を原文で2回も読んでるらしいんですけど、知識として読んだっていうのと、フランス語の言い方とか、いわゆる「もののあはれ」を理解するのは違うんだなと思いました。
北村 プルーストなんて最初何書いてあるかわからないでしょ。一応一通り読んだけど、結局最初から最後まで何書いてあるかかわかんない。2回目読んだらすこしわかりましたね。ああ、そういうことだったんだって。例えばね、カルティエさんが出てくるんですよ。1ヶ所ですけど、丸い顔をしたカルティエさんが、夜会に出てくる。それを発見した。あのブランドのカルティエ。この小説の主人公の名前も出てこないんだけど、第3巻に、アルベルティーヌという女性と2人で付き合ってるときに、アルベルティーヌが、「マルセル」という名前を呼ぶんですよ。まさにマルセル・プルースト。それ1ヶ所だけ。ひょっとしたらこの主人公はマルセルなのかな、と思わせる箇所があります。みんな読んでないから最後まで主人公の名前を明かさないって言われてるわけ。
一中 プルーストは病弱だったそうで、カペー弦楽四重奏団を自宅に呼んでね、自分の部屋で演奏してもらってたんですね。
北村 ジャポニズムの時代でしょ。最初オデットさんという女性が出てくるんですね、スワンさんの恋人。その人の家にいると菊が飾ってあって、オデットさんがキモノ着てる。知らないでしょ、みんな。あの頃は、ジャポニズム。そういう描写がしばらく続くのが、スワンさんの女友達。音楽に話戻していいですか。クラシック全然ダメだったのね。50歳になったとき、おれの人生は終わりだと思って。ちょうどね、大学の恩師がなくなっちゃって。そろそろ自分の番だなと思った。ちょっと待った、おれはこのまま死ぬわけにいかない。それで、クラシック音楽を聞きましょうと思ったんですよね。それで何をしたか、ブルックナーの4番を買ってきて。
一中 いきなりブルックナー(笑)。
北村 終わるまで聞いたけど、何が起きてんのかさっぱりわからない。だけど、またかけて。これは理解できないやと思って。車のステレオにブルックナーを入れて、毎日ブルックナーだけを聞いていた。そのうちだんだん慣れてきて、よくわかんないけどそういうもんなんでしょうねっていうのは、なんとなく理解できるんですよね。
一中 自分の中で感じとって、毎日聞いて感じとるわかり方っていうのと、ブルックナーの本を読んで、「ブルックナーってこういう音楽なんだ、レコードはこれ」、それで理解しちゃうっていうのの違いだと思うんですよ。
北村 吉田秀和の本とかあるじゃないですか。僕は何書いてるかわからない。音楽批評のフルートがどうのこうのとか言われてもわかんないですよ。いい音楽聞いても何がいいのかわかんない。だけど、時々あの人キー外したなとか。
一中 その違いはものすごく大きいと思います。音楽を聞いて、ああそうかって、だんだんなんとなく感じとれるようになる方向に行くのと、ブルックナー聞こうとして、ブルックナーについて書いてあるものを読むっていうのは全然違いますよ。でもそれがね、高学歴の人が陥る罠なんです。ワインもそうだと思う。ワインを飲むんじゃなくて読む。「これは何とかかんとかの、どこの何年のということで、うまいね」みたいになっちゃう。今のお話は非常に貴重だと思ったんですね。こういう方が、そういうアプローチをするっていうのは。

北村 大(きたむら まさる)
北村法律事務所代表 弁護士
昭和27年東京生まれ。昭和40年青南小学校卒、昭和46年麻布高校卒、昭和51年東大卒、
ハーバード大学修士(法律、行政)、外務省(北米局、ワシントン、国際法局等)、平成4年から弁護士。
専門は生命科学、ソフトウェア等。

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